さて、昨日からお届けしている、私の「私開放」Story!昨日は、夫の退職から屋久島引っ越しまでについて、お届けしました。今日は、屋久島生活編について、お届けします。
今日、初めてこのブログを読んで下さった方のために、簡単に伊藤知子の現状をお伝えしますと、今年の7月下旬から、夫の法科大学院留学について、アメリカロサンゼルスに引っ越し、在住。マルチポテンシャライトとして、大別して5つの仕事を同時並行で進める個人事業主です。
では、早速屋久島生活編、お届けしていきます!
夫の退職と共に、2023年3月頭に、関東から屋久島へ引っ越し。空き家がなかなか見つからない屋久島で、奇跡的に住まわせて頂く家は見つかったものの、屋久島生活では必須となる車をどうするか?という問題が残っていました。この課題も、引っ越し直前に、旅行の時から懇意にしていたレンタカー屋さんの社長さんのお力添えで、長期間お借りすることができるように!知人も決して多くない状況での屋久島への引っ越し。「どうなっちゃうのかな〜😦」と不安70%、期待30%位の気持ちで引っ越しましたが、この心配は杞憂に終わったのでした。
ごく少数の身近な人にだけは、これまでお伝えしてきた屋久島での生活。
「今、ロサンゼルスに住んでいて、色々大変なこと、カルチャーショックも有るんじゃない?」と気遣いのお言葉を時々頂くのですが、正直、屋久島での生活の方が、個人的にはカルチャーショックの連続。
私は、屋久島での体験を島留学と名づけたほど🤣
同時に、屋久島には言葉では充分伝え切れないほどの恵みと体験を沢山重ねました。中でも、屋久島の恩人が2人居て、一人は家の管理人さんのMさん(84歳のパワフルな女性)と懇意にして頂いたレンタカー屋の女社長さん。この2人無くして、私達夫婦の屋久島生活は成り立ちません!旅行で訪問していた時は、屋久島の魅力は「豊かな自然」だと思っていたけれど、暮らしてみて感じるのは、屋久島の魅力は、思い思いの生き方をしている”人”だということ。それ位、本当に十人十色の人生がある。
では、私が屋久島での生活を「島留学」という所以は何か?まず、引っ越して驚いたのが、屋久島では町の最初単位が、集落である、ということ。
私が暮らしていた集落では、朝の7時に必ず、エーデルワイスの歌が、起床時刻を告げる町内放送と共に流れます😲海で夕陽を眺めていたら知らない酔っ払いの近所のおじさんに声をかけられ、そのまま飲み屋に一緒に行くことになったり、見知らぬ漁船に乗って、キハダマグロ漁にご一緒したりなど、珍エピソードはまだまだ語り切れませんが・・・書き出すと本題のMy Storyにいつまでも入れませんのでココまで。とにかく、人と人との距離が近く、”分かち合い”の温かい心が日常に溢れているんです😌
本題の、屋久島生活が、いかに「私開放」に繋がったか、という話に移ります。実は、もう手放したと思っていた、「ある思い込み」に屋久島生活の中で徹底的に向き合うこととなるのでした。ある思い込みとは、「何者かでない私には価値がない」という思い込み。
これまで、人生の片付け祭り、コーチング、新たな経験を重ねることを通して、散々手放したと思っていたのに・・・。屋久島での生活の中で、「私」のラスボスと再び対面。
面白いことに、屋久島の地元の人と初めて会った時に1番多くされる質問が、「あんた、どこの家の子ね?」という(どこの集落に住んでいるの?)もの。「仕事何してるの?」と聞かれることは、東京に比べると多くありません。「どこに住んでいるか?」で大体どういう人かが特定されますし、どこの家に住んでいるか?で信用が決まるような雰囲気さえ感じます。「私」にとっては、この島の人の接し方が、逆に鎧を脱がせてくれたように思います。「〇〇の仕事をしているから」という事は、あまり島の人にとっては重要なポイントではないようで、「どこの家の子ね?」と聞かれると、何だか一人の人間として、フラットに見て貰えている気がして嬉しかったんですよね。「何者かでない私には価値がない」という思い込みから解放される1番のキッカケは、大家のMさんの私達への接し方でした。Mさんは、内見でしか会ったことのない「私たち」のために、初日から布団を貸してくれたり、お赤飯や手料理を持ってきてくれて、温かく迎えて下さりました。引っ越してきた事情も深く詮索することもなく、「明日は〇〇しよか〜?」と筍狩りやパッションフルーツのお世話、一緒にお蕎麦を食べに行ったり、畑で雑草抜きをしたり、と色々な所に誘って下さいました。Mさんの温かさに、「何者か分からなくても、先に100%信頼して受け入れて貰えている」気がして、ふ〜っと肩の力が抜け、今まで感じたことのない安心感を感じたことを今でも覚えています。
「誰かの役に特別立っている訳でも、屋久島で何か成し遂げた訳でもないけれど、そんな自分でもここに居ていいんだ。」と、Mさんと一緒に日々過ごすうちに徐々に感じるようになって、「私」の強烈な思い込みも少しずつ雪溶けに向かっていきました。
初対面の人に、こんなにも絶対的な安心感を覚えるという感覚は、「私」の場合非常に珍しく、自分でも驚きました。
本当は、屋久島での生活が立ち上がったら、仕事を再開したいと思っていました。でも、必要最低限のものだけを持って引っ越した屋久島での生活、家は仕事をする環境が整っているとは、とても言えませんでした。そして、「今、1番仕事をしたい」とも思えなかったのです。「屋久島でしか体験できないことを1つでも多く体験しよう、暮らす事でしか見えない、屋久島の魅力を余すことなく味わい尽くそう!」と途中からは気持ちも吹っ切れました。周りの企業仲間の活躍を見て、「私も早く結果を出さなければ💦」という焦りの気持ちや先の見通しが立たない屋久島での生活に対する不安から、今思えば、「仕事をしなくちゃ!」と感じていました。
Mさんが、1日1つ、必ず予定をつくり、80歳を越えても、少女のように輝く瞳でワクワクした気持ちで毎日を過ごしているのに影響を受け、「私」は屋久島で暮らして初めて、「今ココを生きる」という感覚を体感することができたように感じます。
Mさんは、「私」にとって、「こんな風に豊かに年齢を重ねていきたいな✨」と思わせてくれる、人生の先輩でもあり、お手本にしたい人。「私」もMさんのように、80歳を超えても、新しいことに果敢に挑戦し、好奇心で胸をトキめかせ続ける生き方が目標!
家から歩いて30秒で海があり、朝起きると、海の向こうに昇る太陽を拝みに行き、集落の農道を散歩が日課。屋久島の懐深い自然の力もあって、毎日朝陽を拝んでいると、「今日も新たな1日が始まるね。今日はどんな1日にしようか?」と、昨日までの自分がリセットされ、自分と静かでゆっくりとした対話が始まるのが当たり前に。
これまでの「私」は会社員時代に叩き込まれた逆算思考が染み付いていました。目標を決め、逆算して今の行動を導き、動く。1つ目標が実現すると、また新たな目標に向けて走り出す。調子が良い時や目標達成をする上では、逆算思考は有効ではあるのですが、度が過ぎると、燃え尽き症候群になるリスクも。(実際に、私は2022年6月から約半年ほど燃え尽きました💦)逆算思考が得意だった「私」にとって、先の見通しが立たない屋久島での生活は不安ばかり浮かんできました。
でも、「ベストなタイミングとは決して言えないものの、せっかく、やりたい100のことリストに書いていた屋久島に、今住んでいる。そして、屋久島は願った人誰もが住むことができる訳でもない環境。なのに、このまま後ろ向き、不安を募らせて暮らしたいのかな?」と自分に問いかけた所、「このまま時間が過ごすのは勿体無い、嫌だ!!」と思ったんです。当時、非常勤講師を務める英語塾のテキストとして読んでいた、『Connect The Dots』というセレンデイピティー学の本も、逆算思考を緩めるのにとても効果的でした。この本を読んで、「私」が屋久島に暮らすことになったのは、「正に本に書かれているセレンディピティーが起きる流れそのものだ!」と自然と思えたことも転機のキッカケの1つ。
「屋久島での生活がどうなるか?」、「今後の生活に屋久島での生活がどう活きるか?」現時点では見えないけれど、「今を100%生きること」を意識して生きよう!屋久島でしかできない経験を味わい尽くそう、と心が少しずつ前向きになりました。
そうしたら、英語塾の非常勤講師の仕事以外、特に仕事をしていない自分も受け入れられるようになった。
同時に、屋久島での生活を通して、自分の人生におけるテーマがより明確になり、出来ない・ダメな自分も受け止められるように変化していったんです。
私は、自分の好奇心を正直に追究すること・自分実験を心行くまですること(=真剣に遊ぶこと)は自分の人生において譲れないなと👆
決して人に自慢できるような大層なことではないけれど、自分が1番大切にしたいこと。
今までも、「感覚的に何となくそうかな〜?」とうっすら気付いていたけれど、見て見ぬ振りをしていた部分もありました。
でも、「もう自分を誤魔化せないな」って明るく諦めることが、屋久島での生活を通してできました。
「仕事よりも遊び(自分の好奇心、探究)を優先したくなる自分は、社会に適合できないのではないか?」
”ちゃんとしていない”って、周りの人に思われたらどうしよう…と、どこか不安だったのですよね。
屋久島の人々のお陰で、「何者でもない自分」もある程度受け入れられるようになったものの…屋久島からロサンゼルスに行くと決めるまではまた心の葛藤、一悶着がありました。
次回は、ロサンゼルス生活編について書きますね🖋✨