コロナがキッカケでは無かったが、2019年の年末、私は、非常に怖い決断をした。
知人の紹介でいただいた仕事を、半年で辞めることにしたのだ。
当時、デンマークの旅行会社の日本・アジアでの事業拡大支援を業務委託で週3日、1日5時間だけ稼働という好条件で働かせて頂いていた。
仕事を辞める決断をするに至ったのは、一言で言えば、”人間関係”だ。雇用主の方は素晴らしくエネルギッシュだったが、そのエネルギーを一人で受け止め切れないことも多々あった。
また、基本的に、「どうしても出来ない…」という程苦痛な業務は無かったが、予約の状況のアップデートやデンマーク本社とのルーティーンメールなど、”出来ることなら手放したい”という業務が仕事の半分程を占めていたのだ(汗)
ただ、その企業が提供している”冒険旅行(エクスペディション)”と呼ばれる商品には心底惚れていたので、辞める決断をするまで非常に悩んだ。
また、マーケティングや営業の仕方がとてもクリエイティブで貴重な経験も沢山させて頂いたことは、とても感謝している。もし、エクスペディションのアテンドスタッフとして仕事が出来るのならば、仕事の1つとして、また関わってみたいなと思う位だ。
コロナ禍に突入する直前、アフリカ支社の代表の来日並びに来日イベントの企画が、その会社との最後の仕事になるとは…「何だか虫の知らせをキャッチしたのだろうか!?」と自分でもタイミングに驚く。
そして、職場での人間関係の葛藤を経て、”「私」やっぱり自分の人生の意思決定は自分でしたい!”と思ったことも、恵まれた条件の業務委託の仕事を卒業するもう一つの理由だった。
でも、辞めてはみたものの、残念ながらすぐには、「コレで起業する!」というコトが見つかる訳ではない。
2019年7月頃からコーチに伴走して貰いながら、準備はしてきたつもりだったけれど…基本的に心配性の「私」は、「飛ぶしか無い…!」と追い込まれないと、なかなか一歩を踏み出せないタイプ。
ところが、予想外のことが起きた。
何と、デンマークの旅行会社の仕事を辞めても、「一緒にプロジェクトをしよう✊」と元上司に声を掛けられたのだ。「私達ならできる!」と。
確かに、元上司の発想力は、人の心を捉える、抗いがたい魅力があるのだが…彼女の感情の起伏を受け止めるのは魅力と同じ位疲弊するのだ…。
だから、「私は私でやるべきプロジェクトがあるので、お手伝い出来る部分は、応援しますよ。」と伝えた。そして、まずは1Dayワークショップをやろう!という話になり、準備を進めていたのだが、コロナで中止を余儀なくされた。
その頃から話が拗れ出し、最後は、理由も分からないけれど、一方的に怒られ、解散となってしまった。
その時は丁度、何が起こっているか分からなかった状況に、”コロナウィルスの世界感染”という名前が付いた2020年3月下旬頃。
途方に暮れていた「私」は、「自分のサービスを始める時のために、まずは使い方に慣れよう!」と発信を始めていたインスタグラムで、憧れの著者のメンタリングセッションが無料で受けられるという情報を見つけ、半信半疑でセッション初日、Zoomのキャパシティーオーバーで不参加とならないために、1時間前からパソコンに張り付いていた。
そう、これが、「私」が勝手に当時メンターと慕っていた、著者、アレックス・バナヤン氏と私との出会いのキッカケだ。
ほぼ20代のテンションが高いアメリカの若者がマジョリティーを占めるアレックスのメンタリングセッションは、何だか30代半ばの「私」には居心地が非常に悪かった。
若者達は、感度高く、みるみるとアレックスのアドバイスを元に変化していき、見違えるように変化を遂げているように、当時の「私」からは見えた。
「私」は、と言うと、一所懸命出された課題にも取り組むものの、一向に光が見える気がせず、これで合っているのかどうかも分からないまま、来る日も来る日も朝9時から1時間、Zoomの前に40日間連続で張り付き、アレックスや彼の知人の話にとにかく耳を傾けるという日々が続いた。
2019年7月、信頼できるコーチと出会い、伴走して貰っていた。最初の半年は、コーチと一緒に未来を描くことが楽しくて、人生が純粋に進んでいくように思えた。だから、契約終了後も、継続して伴奏をお願いした。
コロナの始まった1ヶ月〜2ヶ月位は、”世間の目を気にせず、堂々と立ち止まれるぞ〜🙌”とコロナによる謎の強制終了を楽しんでいたものの、”自由に移動するのもはばかられる世界”は、1か所に止まれない「私」にとっては、とても苦しく、徐々に心が蝕まれていった。
”1か所に止まれない”や”自由に移動するのがはばかられる”ことが、自分が苦しく感じる原因だったのか、と気付いたのは、2022年末位のことで、当時は原因も分からないけれど、徐々に元気がなくなっていった。
夫が隙を見て、旅行に連れ出してくれたのは、せめてもの救いだった。
しかし、旅行から帰ってきて数日すると、コンクリートとオフィスビルに囲まれ、当時川崎で暮らしていた私は、またシュルルルルゥ〜っとゆっくり電源が切れていく家電のように生きるエネルギーが下降していくのだった。
当時、コーチとは、ひたすらネガティブで暗い感情の中を彷徨う時間が続いた。
それでも、1つ自分を褒めることがあるとすると、そのドロ〜っとして重たいネガティブな感情がどよめく時間を、一人ぼっちで過ごさず、コーチという伴走者をお願いできたことは、私なりの進歩だったと思う。
2020年の11月頃だっただろうか?
1年半近く伴走して貰ったコーチとの振り返りセッションで、私はあまり鮮明な記憶がなかったのだけれど、「私、もう大丈夫です」みたいなことを言っていた模様。
「知子さん、私は感激しています〜!!」と、普段聡明で、落ち着いて話を聴いてくださるコーチの方が興奮気味に話してくれた光景は、何となく覚えている。
その時に、「私はもう大丈夫って言葉が出てきたの、初めてじゃないですか?」と言ったフィードバックを貰った事は朧げだが記憶している。
そして、コロナで蝕まれた心を労わりながらも、「そろそろじっとしているの飽きてきたな〜」と、少しずつ思い始めたのが、2020年末の頃。
ただ、当時の「私」は結構腰が重く、韓国ドラマを1日中見たり、フラッと一人で好きな所に出かけてみたりと、まだ人生の休暇を楽しんでおり、すぐに、「よし、動くぞ〜!!」とスイッチが入った訳では無かった。
と言うのも、2020年6月〜8月にかけて、知人と共同主催で開催した初めてのプログラムが、非常に大変な記憶として残っており、その心の傷、ショックから立ち直るのに、また半年位かかったのだ。
当時も今も、振り返ると、「人の目や気持ちを気にし過ぎて、言いたいことが言えない」というのが私が抱えている共通の課題。
今では、少しずつ、「安心して言える場所」は増えてきたのだけれど・・・。
2020年の年末頃はまだ、マルチポテンシャライトという生き方とも再会していない。
そして、「オリジナルサービスを創りたい!」と思いながらも、あまり行動できずに1年が経ってしまった。
と言うのも、やり方が分からなかったのと、
6月〜8月のプロジェクトで、自分的には成功体験を詰む予定だったが、逆に、当時の「私」にとっては、「もう暫く講座は提供したくないし、人とコラボするなんて簡単に言うもんじゃない」という苦く苦しい経験として刻まれる想定外の結果となったからだった…。
当時は、「もう思い出したくも無い、蒸し返さないで〜」と臭いものに蓋をするように記憶から消したいと思うばかりだったが、今思えば、「思うほど上手くいかなかったけれど、その中でも、出来た事は何だった?」と自分に問いかけてあげられていれば、もっと早く立ち直り、次の行動に向かえたかもしれないなと思う。
私、伊藤知子の「私開放」物語は、2019年に続きます。